僕を構成するものは一体なんなのか?
僕を構成するもの
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ふと、考えてみた…「一体僕は何で構成されているのか?」
もちろん、肉体的なことではなく精神的なことである。肉体的にはわかりやすい。親がくれた身体に今まで食べてきたものが血となり肉となり、そして今の身体を構成している。
しかし、精神的な部分は目に見える形ではないので普段感じにくい。だから改めて考えると「う〜ん」と唸ってしまう。
何に興味があるか?
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精神的に自分を構成しているものを見つけるのには「自分が何に興味をもっているか?」を考えるとわかるのではと思った。
自分が興味をもつもの…例えば僕は子供の頃から機械が好きだ。これは間違いなく父親の影響だ。父がよく休みの日に車をいじっていた…僕はそれを横から見ていた記憶がある。転じて僕も機械いじりが好きになっていったのだろう。
他には歴史好きでもある。これは母親のおかげだろう。小さな僕にも読みやすいように「まんが日本の歴史」が全巻家にあった。僕はこれを深く考えずに黙々と読んでいた。
また、小学校時代の友達の影響でもあるだろう。当時流行っていた「信長の野望」という歴史ゲームを四六時中一緒にやっていた。おかげで日本地図は完璧になったし、昔の地名にも強くなった。
ほかにもたくさんある。日曜大工が好きなのは自分で家を建てるくらいだったおじいちゃんの影響だし、煮物や漬物が好きなのはおばあちゃんの影響だろう。
こうやって考えるとわかった。
僕を構成しているものはすべて周りから与えられたものばかりであることが。
父親や母親、祖父母に友達…自分の人生で出会ってきた人から様々な影響を受け、それを自分の中に溶け込ませることで自分を構成しているのだ。
人間は基本的に「与えられる生き物」なのかもしれない。
生まれ出た赤ん坊は一人では生きていけない。母親から母乳を与えられ、生命を紡いでいく。そして大きくなるにつれて行動範囲が広がり、幼稚園や小学校といった多数の中に入ることで社会性を身につけていく。これも経験する場が与えられているからこそ身についていくのだ。
つまり人を構成するものが他人から与えられたものであるということは他人なしでは構成されることがないということだ。
これこそが「人は独りでは生きられない」の本当の意味なのかもしれないなぁと思った。
借りたら返す
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「借りたら返す」…いたって当たり前のことである。自分を構成するものが周りからの影響であるということは、自分は周りに「その人が体験したもの」を借りている状態である。だから、返す必要がある。この返すという行動が「感謝」なのではないか?
体験をそのまま返したところで意味はない。その体験を伝えてくれたことで得ることがあったならそれを「ありがとう」の言葉や態度をもって返すのが大切なのだ。
こうして自分は基本的に与えられてきたと考えると「与える気持ち」も出てくるのではないだろうか?
自分が成長し、与えられなくても生きていける人間となったなら、次は与える立場になっていかなくてはならない。いつまでも求めてばかりではダメ…ここからの成長は、得たものを自分というフィルターを通して伝えていくことで可能となるのではないだろうか。
教え、伝える…つまり共有していくことが大切なのだ。
だから僕はブログを書く。
どんな些細なことでも誰かを構成するものになり得る可能性があるなら僕というフィルターを通して伝えていく。
いきなりだけどちょっと考えてたことを書き出してみた。